Archive for 05 March 2009

05 March

i am off ... 3/4



 3月に入ったので、2月中、指に嵌めていたアメジストのリングを一度はずし、清めてあげようと思った。


 午前11時半頃、郵便ポストを覗く。
 郵便配達人の方は必ずこの時刻に郵便物を届ける、これは担当の人間が替わっても、ここに暮らすようになって十数年、変化しない、因に宅急便があちこちから届く時刻も同じ、ルート通り、仕事は済まされるのである、何でも。

 ポストの中には、Y-ミュージックからの支払通知書が入っていた。
 私宛てとチェリー宛てと2通。それにもうひとつ、大判の封筒も有り。
 濡れていなくて、よかった。


 遅い朝食は、バゲットとヨーグルトと珈琲。バゲットはよく噛むので少量でも食べた気になる。そして、ヨーグルトは私が幼子だった頃からの生命の頼りであったらしい。私は幼児期、母乳や粉ミルクをちっとも飲まない赤ん坊であり、困惑した母は、離乳食に入る頃の私にヨーグルトを与えた。与えたところが、ヨーグルトは口に入れられると、スルッと飲み込んだという。私の骨を丈夫にしてくれたのは、このヨーグルトだったのだろう。


 午後はメールにお返事を書いたり、ちょっと思い当たることを調べて過ごす。
 そして、何度も何度も読み返している本を飽きもせず、読む。私は馬鹿者なので、くり返しに飽きることはない。
 刺激とは、確かに知らぬ物から授けられることはあるが、そればかりではない。
 いや、結局、刺激とは、私自身の心の裡で或る時、瞬発的に発生するものだと思っているのかも知れない。
 

 お夕食、もやしのおしたし、キムチ、とろろ、海苔のお味噌汁、白米。もやしはナムルにしたかったが、今日は調理に油を使わないと決めたので、胡麻油無し。今日のヤマイモはサラサラしている。私が好きなのはもっと粘り気のあるお芋だが、サラサラしているだけあって、だし汁の味をそれほど効かせなくてもよい、つまり、塩分控え目に仕上がるということ。このとろろは、他のお芋と違い、冷凍保存しても水っぽくならないのでたくさん作って保存しておくと便利なのである。キムチはこれは市販のものだが、それほど値段が高くない割に、美味しい銘柄である。一見、寂しい晩餐のようであるかもしれないが、ヤマイモは疲労回復に役立ち、成人病予防。今日はそれほど動いてもいないし、ご飯はきちんと一人前(以上かも? 何しろとろろなのですもの)はいただいている。勿論、ビール、有り、である。


 
 深夜になり、オリヴィエ・メシアンの1944年の作品、『幼児イエズスに注ぐ20のまなざし』を久しぶりに聴く。
 まず、第一曲目の「父なる神のまなざし」・・・この楽曲を聴いていると、西洋の寺院というより、日本の寺院に佇んでいるような気がする。ピアノの音はあくまで西洋的であるが、明るすぎない光を感じさせる音質は心地よい。楽曲の和声感は、ドビュッシーの『前奏曲集』や『映像』に含まれる作品たちにも似た感触があるが、メシアンの筆は、それらよりも静謐で控え目である。

 が・・・

 ここで控え目などと思っていると、次の楽曲でどんでん返しに合う。「星のまなざし」・・・これは私たちくらいの年齢の方なら<現代音楽>とは、<このようなもの>とイメージする典型的な描写となる。たたみかける和音、その後に、細かい連符のパッセージが高音で鳴り、不協和音とフォルテで押し寄せる不安気なフレーズ・・・やがて鎮まったと思うと、奇妙な記号のような呪文のようなフレーズが闇の中を飛ぶ蛾の羽根から散る細かな粉のごとくつづく・・・いつしかそれらは、幾何学的な模様を思わせるフレーズとなって、三角柱が宇宙の暗闇で回転しながら遠ざかり、近寄り、遠ざかり、近寄り・・・・・・

 そして、重要なことは、メシアンはこの作品に様々な色彩を指定しているということである。これについては、私が今、このpageで記述してしまうのもつまらないかもしれないので、書き控えさせていただくが、この色彩を意識するということは、<作り手>である人々にとって欠かせないことのひとつなのである、これは、別に<作り手>が、画家であるとは限らない。実際、私などでさえ、文章を綴ろうとしていたり、或いはピアノを弾いている時、必ずこの色彩感覚が頭の中をよぎっていると言っても言い過ぎではない。この色という存在は、風景とも言えるが。

 メシアンのこの作品は、彼が神秘主義、或いは信仰の世界に浸った時期のものである。今日的にはそうではないかもしれないが、20世紀半ばあたりまでのアーティストの中には、人生の旅の一時期を、宗教的、或いは、神秘主義的なものに感化された人間も少なくはなく、作曲家という分類で思い浮かべてみれば、このメシアンの他にもリストやサティがそのような時期を経過している。そして、その誰もが、神秘や信仰に足を踏み入れるのは一時的なのである。一時的の理由はつまり簡単で、彼らは明らかにアーティストであり、宗教家とは成り得ないからなのだが、私は彼らの生き方から産まれる作品の一部として、それらを興味深く受けとめている。


 3月4日の、"i am off ... "の一日は、このような具合に過ぎて行った。

 明日はやや太陽も顔を出すと予報にあったが、ならば、洗濯である。

 ここに居る以上、私の遣るべきことは、日々、同じことが与えられている。
 洗濯、掃除、調理、ひとりであろうが、ふたりであろうが、これは欠くことの無い私の仕事であり、それなくして、小さな幸いを知る事は、無い。

 だが、今日のように、お肉無し、油無しの質感の食材をサッと用意する時であっても、または、尼僧のようになどと宣ってみても、私の指には、銀座「和光」の繊細にカットされた海鳥が翼を広げたようなダイアモンドのリングが嵌められていたりするのである。

 すり鉢と鍋とザル・・・それを持つ手にダイアモンド。
 些か矛盾していると思われるだろうが、私にとっては、これは全く、矛盾でなどない。


 私とは、そういう者らしい。


 ダイアモンドの輝きは不動だが、この17年間で、それを支えるプラチナには少々傷も見られるようになった。
 しかし、生きているからこそ、それを嵌めるのであり、例えジーンズと着古したセーターでそれをしていても、可笑しくはない自分であることに仕合わせを視るということは、悪くは無い。


 貴重と呼ばれるものを、当然のように日常に活かすことは、少なくとも、吝嗇(=ケチ)ではないことであり、だからこその、質素も、生まれてくるのである。


 馬鹿者なので、このような発想を、お許しください。


 何しろ、跳ねっ返りの女盗賊だからして。


 PEACE & LOVE






11:27:09 | mom | No comments | TrackBacks