Archive for February 2006

27 February

乱れる・・・。


 澄んだ瞳、透明な風に似た声・・・そのような清廉な男に、或る日突然「あなたを想っている」と告げられたら、女は一瞬、言葉を失うかもしれない。

 今日の私の相手は、メロドラマだ。
 だから、やや感傷的になるべく、おつき合いしたい。

 1960年代初頭、女は酒屋を切り盛りしながらせっせと生きていた。この女、戦争未亡人である。名は礼子。歳の頃は36、7才だろう。戦後の動乱にもめげる事無く、この酒屋を18年間守ってきた。一家は姑と義弟。その他、他家に嫁いだ妹が二人いる。時は高度成長期、この町にもスーパーマーケットが進出してくる。小売りの酒屋は、大型店に押されてしまう。そんな理由でこの酒屋一家にも変化が訪れる。この店を大型店に変えようという計画だ。義弟と義妹たちの提案だが、そうなると、この礼子の立場が微妙になってくる。しかしこの酒屋がここまでになったのは、礼子の頑張りだったはず。何となく、体よく彼女を追い出したい義妹たち。しかし、何時しか、義弟は礼子を慕っていた。礼子無しで、話を進めるつもりは毛頭無い。
 大学を卒業して東京に就職してもリタイアし、実家に戻ってもふらふらしていた義弟である。が、礼子のために人が変わったように酒屋の仕事に勤勉になる。やんちゃな弟を何かと庇いながら可愛がってきた礼子・・・。そんな時、彼女は突然、彼に愛を告白される。どぎまぎする礼子。義弟は諦めない。
 揺れる彼女の心は、明らかに”乱れる”。今まで通り、自然な態度で彼と向き合うことが、もう、出来ない。
 彼女は彼の一挙一動にも、敏感になってしまう。
 このふたりの関係に気づく者はいない。
 考えたあげく、礼子は長年尽くした亡夫の家を遂に去る決意をする。
 荷物をまとめ、実家に戻るための電車に乗る礼子。・・・すると、車両の中で義弟の姿を見つける。・・・彼は彼女を追って来たのだ。長い旅である。向かい合って夜を過ごす。彼女は目の前の義弟の寝顔を見て、愛おしく思う・・・。
 窓の外は、闇である。彼女の視線は、彼の表情に吸い寄せられる。無邪気に眠る男の顔に、優しい眼差しを送る礼子。・・・愛した夫の弟の寝顔は、遠い昔に何度か見つめた、亡き夫の顔に、似ている・・・。

 ・・・あの人と過ごした、ほんの僅かな時間。私の幸せは、ずっと封印されて来た。・・・ああ、私はもはや、誰をも愛することなど無い、と、信じて生きていた。彼が言うように、私は一家の犠牲になっていたのかも知れないわ・・・。今、私は過去の全てを棄てようとしている。どうせ捨てる一切合切なら、一度だけ、自分に正直になってみようか・・・。この無邪気な寝顔をさらす男のために、私は心を許してみたいような気がするわ・・・。思えば、彼は私を執拗に求めてくれた。優しくしてくれた。・・・私は、言ってみれば、彼に押し倒されてしまったようなもの。女はこんな時、愛しい人に恩返しをしたくなるのね。そう、私はもう、あの家を去ったのだから、ここに私の最後の自由があったって、いいじゃない・・・。

 ”乱れ”は、現実の姿となって、彼女の行動を潔よくさせる。
 朝、或る駅で、礼子は突然、電車を降りようと彼を誘う。
 鄙びた温泉町である。宿帳には、どのように書いたものだろう・・・?
 夜が静かに更けていく。食事の時の割り箸の紙を、指輪に見立てて義弟の指に巻く礼子。・・・いけない瞬間だ。
 このように、女は、ふとした気紛れで、公約の気分を男に与えてしまう。彼女の中にある彼は、あくまで無邪気な男なのだが、男はそれを許さない。
 清純なつもりが、無意識に誘惑している礼子の全身である。
 男はもう、引き返さなくてもいいと、覚悟する瞬間である。
 しかし、その愛を、じれったくも拒絶する彼女だった。
 男は自棄を起こし、宿を出る。この男、すぐに荒くれ者の振りをしたがるから、また厄介である。うそぶいて、彼女に電話をして、困らせる。
 戻って来て・・・と、彼を案じてやまない彼女。
 そう、男はいつも通り、彼女を困らせたいだけだったかも知れない。が、彼は朝になっても戻らない。今朝は、戻らない。
 荷物をまとめる朝、礼子が見たのは、帰らぬ人になった彼の姿だった。崖から足を滑らせた、”お連れさん”は、もはや、あの明るい言葉を失っていた。

 1964年の成瀬監督の映画『乱れる』。礼子を演じたのは、高峰秀子。義弟を演じたのは、加山雄三。
 戦争中、急ぐようにして、高校を卒業とともに嫁に来た礼子だったが、嫁ぎ先の妹弟たちは、教育を受けたり、裕福に結婚生活を満喫している。戦後、時代がガラッと変わり、新旧の価値観が著しい時、何の準備も無いまま、ただ、愛する者と結婚したひとりの女。夫を奪われただけで人生が狂ったはずなのに、その18年後に、再び訪れる人生の衝撃。彼女は、誘惑していた・・・心ならず・・・しかし、彼女を最初に襲い、柔らかく押し倒したのは彼ではなかったのか・・・?その恋慕に負けた、女性の感情は、否定出来ない。感傷的かつ甘い角が生える女心は、いつの世も健在であってほしい。

 メロドラマである。
 が、三文小説的な匂いを感じないのは、私の贔屓目か?
 いや、そうでは無い。
 珠玉の女優、高峰秀子の品格と、加山雄三の毛並みの良さが、生きているのだ。
 涙無しでは語れないような話と解釈するも、結構、だろう。
 近親相姦では無いが、タブーを意識した男女の恋物語、と言えば、それまでだろう。
 
 しかし、そこに焦点を持っていくのは、大きな間違いなのね。

 ”乱れる”の、本質は、この男女の危うい恋の行方にだけあるのでは無いの。

 ”乱れた”のは、そもそも時代。・・・この国。

 平穏な生活を略奪された女の人生を通して、この物語が描こうとした真実は、失われた自由への願望かも知れない。
 メロウな恋の彷徨は、その辛辣な時代抵抗への仮りの姿。
 ドラマのための、美しい複線の役割なのだろう。

 それにしても、”乱れる”というタイトルは、人を惹き付ける魅力があるわ。

 知らず知らずのうちに、押し流されていく人の心。
 波が、立続けに押し寄せて来て、気が着いたら、流されている感覚。
 決して、強引では無いのに、その人の心が、自分の中に入って来たことを知った時、その波が、恐ろしい嵐を連れてくる。

 時代も恋も、押し流されて、乱れて・・・。

 そうして残るものは、貝殻のような姿。

 微妙な曲線のうちに、進化の観念を凝縮し、死のイメージを確実に主張しながらも、そこにいつづける白骨。

 この屍に、静謐を見ることが出来るならば、時に、乱れてみるのも、悪くは無いのだろう。

 螺鈿細工のような、繊細な美・・・。

 そこに観るのは、不規則な模様。

 螺鈿・・・人はそれを、バロックとも、呼ぶ。

 バロック・・・これは、混乱の象徴でも、ある。
 ゴテゴテした複雑な模様。
 模索し、探究しながら階段を上るための、美しい試練。

 と、メロウな私は、勝手なことを口走ってみるわ・・・。

 でもね、このバロックが暗示するのは、新しい世界なのだわ!


03:53:13 | mom | 4 comments | TrackBacks

25 February

誰も寝てはならぬ・・・。


 どんよりと曇った朝。夕方からは、雨も降り出して・・・。
 それでも、ロンドンの風邪は、少しずつ良くなっている。
 月の姿が見当たらないわ。

 フィギュアスケートの荒川静香選手の活躍は嬉しいニュース。金メダルだったことは勿論のこと。しかし、メダルの色よりもっと美しいのは、この人のこれまでの歩み。幼い頃から励んだスケート・・・16才で挑んだ長野五輪の結果は、思わしくなかった・・・それでも努力と経験を積んで臨んだ今回のトリノ・・・。ひとりの少女が心と技を磨き、立派な女性に成長した姿に、乾杯したくなった。

 彼女のフリーの演技の曲は、イタリアの作曲家プッチーニのオペラ、”トゥーランドット”からのアリア「誰も寝てはならぬ」。この曲は、今回のオリンピックの開会式でルチアーノ・パバロッティが歌ったように、男性の心を歌ったアリアだ。美しく甘い旋律、感動的なクライマックス・・・という、一般的には女性のアリアに感じるであろうはずの印象を、”トゥーランドット”では、男性のロマンティックに焦点を持ってくるプッチーニ。
 その理由は、この”トゥーランドット”の物語に由縁しているのだ。

 所謂「お伽噺」なのだが、それでは内容は、というと・・・

 北京の王女トゥーランドットは、各国の王子の求愛を受けていた。しかし、彼女の心は冷たい。何故なら、かつて彼女の祖母が、異国人に辱めを受け、殺された過去があるからだ。彼女は求婚者に「三つの謎かけ」をする。それに答えられた者に心を捧げるが、答えられなかった場合、その求婚者は、処刑される。これまで、誰ひとりとして彼女の謎に勝った男性はいない。或る日、ペルシャの王子が処刑される所に現われたティモールの王子カラフ。彼はトゥーランドット姫に人目惚れしてしまう。そして、彼女に求愛し、「三つの謎かけ」に挑む。・・・見事にそれらの謎を解いたカラフ王子。王女は混乱する。そして、逆に王女に「自分が誰か?」という謎を出すカラフ王子。王女はカラフを恋い慕う奴隷娘リュウを厳しく尋問し、彼の名前を聞き出そうとするが、リュウは沈黙する。やがて、王子に失恋したリュウは死ぬ・・・「氷のような冷たい姫君の心も」というアリアを歌って果てるのだ。そんな晩、カラフ王子が王女を想いながら歌うのが、この「誰も寝てはならぬ」だ。歌詞はというと・・・

  誰も寝てはならない、寝てはならない
  あなたもそうだ、王女よ
  あなたの冷たい部屋で、ごらんなさい
  愛と希望に震える星を
  しかし僕の秘密は、僕の胸の中にある
  僕の名前を、誰も知ることは出来ないだろう
  いや・・・あなたの唇に、僕が言おう・・・光り輝く時に・・・
  そして僕の接吻は、沈黙のうちに
  あなたを、僕のものにする

 トゥーランドット姫は、王子に接吻され、彼女の冷たい心は溶けていく。
 その時、彼女は、愛を知る・・・。


 荒川静香嬢は、このような楽曲に包まれて演技をした。

 氷の上の、彼女の心が、硬い緊張からゆっくりほぐされていく・・・

 北京のお姫様という役を考えても、荒川嬢の切れ長な目は、東洋的で効果的だわ・・・

 私はそのようなことを感じながら、彼女の演技を鑑賞した。


 世界各国で、この”トゥーランドット”の物語に似た話があるという。
 さしあたり、日本だったら、”竹取物語”だろうか?
 平安初期の9世紀に書かれた”竹取物語”は、”かぐや姫”のタイトルで昔話として語りつがれているが、そもそもは、”竹取りの翁”と呼ばれていたらしい。・・・主人公は翁だったとも言える。作者も不明だという。
 竹を割ったらそこにいた可愛い女の子。彼女は月からやって来た(まさに、初代のSFである)。やがて、惜しまれながら、再び月の世界に帰っていく・・・というのが大筋だが、古典の”竹取物語”では、このかぐや姫、実は天界で罪を犯し、その罰として地上に落とされたということになっている。・・・堕天女である。地上で成長したかぐや姫は、求婚者たちに様々な難題を与え、翻弄する。そう、かぐや姫は、残酷な女なのだ。そんな彼女だが、帝の恋文には、心を惹かれてしまう・・・が、彼女は十五夜の夜、月の使者によって連れていかれてしまう・・・。

 昔話という観点からすれば、これらの物語は、教訓的である。

 あたかも、女性の貞操を示しているようにさえ、思える。

 日本のかぐや姫は、罪を犯した代償として、地上で禁欲的に生きることを余儀なくされる。
 トゥーランドット姫は、祖母の不幸な死に方への復讐として、男性に辛くあたる。

 しかし、彼女たちの心を溶かしたものは、優しく暖かい男性の愛と接吻だった。

 ここでひとこと付け加えれば、オペラ”トゥーランドット”で重要な役割を果たしているのは、奴隷娘リュウの健気な精神なのだ。彼女は王子に恋をしているが、背かれる。どんなに王女に拷問されても、王子の本当の素性と名前を教えない。
 ・・・これは、嫉妬なのだ。リュウの王女への、強烈な嫉妬。
 プッチーニ好みの悲劇が、リュウの姿に象徴されている。
 美の陰にある、素朴な影。
 リュウは歌う・・・女の情念を声だかに歌いあげる・・・

  氷のような冷たい心を持つあなたでも
  燃える愛の焔には勝てないでしょう!
  暁のくる前に
  私は疲れた目を閉じますわ
  勝ち誇り・・・勝つことで奢りたかぶるあなたを見ないために!

 
 
 恋の魔法とは、どんなに冷たい壁をも、壊してしまう。
 一方、嫉妬とは、死することで、やっと地下に葬られる。
 
 私たちはこのようなことを忘れることは出来ないわ。


 トゥーランドット姫が王子にかけた「三つの謎かけ」は・・・というと・・・

 1:世界中のすべての友人で、同等の者に我慢出来ないものは?
 2:子供たちを産み、成長すると彼らを喰らう母親は?
 3:表が白で、裏が黒の葉を持つ木は?


 今宵は月は無い。

 私はまだ、その世界に運ばれることは、無いのね・・・。

03:31:30 | mom | 6 comments | TrackBacks

21 February

ワイルド・ライフに愛をこめて。


 土曜日の午後から、ロンドンがくしゃみをしていた。
 どうやら風邪。やがてどんどん目がどんよりしてくるし、鼻がつまってしまう。
 でも、翌日は日曜。獣医もお休み。ぐったりして、呼吸が苦しそうなロンドン。涙目でぼんやりしている。

 それで私はほとんどこの週末、眠っていない。日曜の朝方まで彼の脇で起きていたが、午前5時には2階の寝室へ。ところが、朝7時半には階下から聴こえる細い声・・・。それを私は確かに聴いた。急いで居間に行けば、オットマンの下から私の顔を見て、絞り出すような声で、また鳴くロンドン。
 昨晩はだから、一晩中、ロンドンに寄り添いながら過ごす。静まりかえった部屋の中で聴こえるのは、彼の「ハー、ハー・・・」という呼吸だけ。・・・死んでしまうのではないかと思うほど、動かない。私は彼にずっと声をかけつづけた。
「苦しいのね・・・もう少しの辛抱よ・・・一緒にいるからね・・・可愛い、可愛い・・・私がいるからね・・・あと数時間、頑張ってね・・・そうしたら、朝一番でお医者に連れていくわ・・・まっ先に、診察してもらおうね・・・」
 無言の猫に、深夜、語りかける。
 猫は、口を開けて私に応える。・・・本来なら、「ニャ」と鳴くはずの、その声さえ、この時はもう、出ない。顎を上向きにして、目を閉じている様子は、「さようなら」と言われているみたい。
 猫をさする私の手は、彼が呼吸をしていることを確かめつづけていた。
「この子を見ていてあげるのは、世界中に、私しかいないのね。・・・ねえ、ロンドン、お友だちはいるの?もしいたら、そのお友だちは、あなたのことを心配してくれるの?・・・どうなのかしら?・・・あなたの家族は、私とルパンなのよね・・・あなたを守ってあげられるの、私たちだけなのよね・・・」

 そして今朝、車にロンドンを乗せる。午前9時を待つことも、もどかしい私は、8時50分に、一番乗りで獣医さんに到着。
 体重を計り(3、89キログラム)、体温を計り(38、6度)、背中と腰に一本ずつ注射を打たれるロンドン。暴れたりしないで、いい子にしている。粉のお薬と目薬をいただいて、再び車に乗せれば、また細い声で鳴く。
 ・・・鳴いた!声が出た!もう、注射が効いてるの!?
 家までは数分。その間中、「ニャ?」である。私も運転しながら応える。
「うん、もう帰るからね、ニャ」
「ニャ?」
「そう、注射、平気だったわね、ニャ」
「ニャ?」
「ほら、お家が見えてきたわ、ニャ」
「ニャ?」
「着いたわよ、ニャ」

 家に入れば、ルパンはまだ寝ている。
 すぐにご飯を食べるロンドン。・・・ああ、食欲はあるのね、生きようとしている・・・。
 目薬をさせば、いやいやをして逃げるけれど、こちらが驚くほど、呼吸が楽になっている。

 空が曇り始めていた。雨が降り出す前に、掃除を、と思い、いつものように掃除機をかければ、静かにしている可愛いロンドン。
 ここでやっと、私は朝から何も食べていなかったことを思い出す。
 ものを齧るのさえ、疲れそう・・・。
 それで、暖かいうどんをほんの少し作る。ああ、優しい感触・・・。

 やがてルパンが降りてくる。ロンドンを見て、
「おや?元気になったね」と、嬉しそうに笑う。
「ニャ」と、ロンドン。

 私はもうひとり分の食事を用意する。・・・あくまで、簡単に。

 そして、「グルルン!」と、まだ時々鼻を鳴らすロンドンの躯を小脇に抱えるようにして、私も丸まってしまおうと、試みる。

 丸まってしまおう。

 お昼ごろ、雨が降り出してくる。

 春先の雨は、景色を煙らせるように降る。
 音も無く、あたりがしっとりと、濡れていく。
 ロンドンの鼻も、濡れている。

 誰かを守る。
 何かを見つめる。

 大きいとか、小さいとか、無いのね。

 皆、個体として、息をして、食べて、眠るのね。

 ただそれだけで、人の心を安らかにしている存在。

 役にたつとか、たたないとか、そんなことは、生きている、という価値の基準になど、ならない。

 あなたがいれば、それでいい・・・とは、そういう安心を言うのだろう。

 何のため?

 なんて、ナンセンス。

 ウィングスの歌に、こんな歌詞があったわ・・・

 ”I'm only a person like you love
 And who in the world can be right
 All the right time・・・・・・・・・”

 ”Wild Life”の曲・・・『Some People Never Know』。
 私はこの曲のこの部分の歌詞が、ずっと昔から、好きだった。

 ”私はただ、あなたに好かれる、そんな人間なだけ
  そして、この世界で正しいのは、誰?
  この恵まれた瞬間に・・・”

 誰が知るだろう?

 そんなことは、どうでも、いいわ。

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18 February

カルメンの純情に関する、私見・・・。


 私たちは、裸のまま産まれる。
 そうしているうちに、産着を着せられ、自らの肉体を隠すように育てられる。
 これを、人は、分明の知恵と思い続けてきた。
 そして、その衣服を、更にデコレイティヴに進化させることを、文化と名付け、心を遊ばせることを学んだ。
 さあ、そこで、もう、私たちの”イノセント”は、風化を辿り始めている・・・と考えてみたら、どうだろう?

 イノセント、人類の歴史を旧約聖書に基づいて考える(ことをしなくてもよいが、今日はあえて・・・)として、その最初の礎となったのは、アダムとイヴである。かいつまんでこの物語をなぞれば・・・まず、男アダムが出没し、その肋骨から女イヴが創られる。或る日、イヴは狡猾い蛇に誘惑される。誘惑とは、「あの赤いリンゴを食べてごらん」という麗しき誘いだ。女イヴは、その蛇の言葉に従う。すると、彼女の価値観は、一変する。「何故、私たちはこのような姿でいるの?私は何も、身につけていないの・・・?アダムの姿・・・あれは全く私と違うわ・・・それなのに、どうして私たちは同じように暮らしていたのかしら?どうして私は、あの人の姿を見て、何も感じなかったのかしら?・・・私は恥ずかしい・・・何も私を覆ってくれるものが無いことが・・・」
 そう、イヴは、この瞬間から、自分の性を意識する。アダムとの兄妹のような生活にも、お別れしなければならない。ふたりが別の肉体を持っていることを知った時、ふたりの無垢は、永遠に失われる。
 女は恥じらい、男はその恥じらいの姿にドギマギしながらも、受け止めることを渇望する。
 そうして、その女のイノセントを観るために、男は、自分を時に、偽ろうとする。

 古代の彫刻には、男性の悠々たる姿のヌードがある。勿論、女性のそれも、同様である。・・・ギリシャの時代、人々はこの人間の本来の裸の姿を崇め、崇拝していた。男は神に等しく、女は女神として、大胆に描かれた。しかし、これらの彫刻は、人間ではなく、神化された想像の世界の者たちだった。
 やがて、絵画の世界は、偶像崇拝から現実の人間を表現するようになる。その時にやってきたのが、裸婦の美である。ほとんどが娼婦を描くが、それは全き女性の生まれたばかりの姿。貴族は画家にリクエストする・・・「あの女が何も身につけていない姿を、私のために描いてくれないか・・・?」画家は「はい、承知いたしました。ヌードですね」と答える。貴族は満足し、画家は金が入る。斬新な表現として、裸婦の絵は尊ばれる。モデルは、こんなことを考える・・・例えば、「ああ、私は偉い人のために、役に立っているのだわ・・・今、私はその人のために、働いている。こんな私だって、救われる、愛されたい、そうして私は、この最も大きな仕事をしている人のために生きているのだわ・・・」

 中世の時代、西洋では女というものは、魂が無い生き物と論理されていたらしい。つまり、男から生まれた付属品で、生殖能力を手伝う生き物として扱われていた。人間以外の動物と同等に認識されていた。だから、女が男の理解を越えた作業をすると、『魔女』などと言われ、火刑になったりするわけである。
 では、何故、20世紀に入るまで、男性の生まれたままの姿が、絵画として描かれなかったのか?果たして、それを観たことがある人が、どれだけいるだろうか?・・・キリストだって・・・隠しているわ・・・。
 私の知る限り、エゴン・シーレくらい・・・である。しかも、彼は、自分の赤裸々を描いているわけで、特定の男性モデルを描いているわけではない。ウィーンでシーレを観て、流石に感動したけれど、部屋に飾りたい絵では、無かったわ。
 肉眼や、彫刻では、或いは、今日のようにオリンピックではないが、スポーツの現実の前で観るような男性の肉体のヌードにこそは人々は美を見るが、この絵画の世界では、ずっと閉口だったのかも知れない(現在は、また別の話だが)。
 ここでは、あくまで、女性の裸体が、讃美される。その女性が、無知であればあるほど、美・・・のみの美しさが探究される。・・・そう、女は、考える動物では無いのだ。喜びのために生きる動物、愛のために生きる動物・・・そのように締めくくることを、ついこの間まで、あえて否定する者がいなかった・・・だけのことかも知れない。
 そして、この事実を、女性のイノセントとしてしまえば、この事は、人類のイノセントの歴史におおいに貢献している。男性は、この角度で見れば、脇役に徹してきたわけである。舞台の袖から、その悪戯な神の仕業に便乗して、世を納めた気持ちになることが出来る・・・演出家の満願、神にさえなったような征服感・・・を味わえるだろう。
 アダムとイヴの話はしかし、プリミティヴな人類の『原罪』としての教訓である。遠い遠い、昔話の世界ともいえる。
 私はこの物語を、醜悪とは思わない。それを人間社会の無邪気な歴史と考えれば、それはそれなりのロマンも見い出すことが出来るからだ。
 また、秩序という観点から見れば、法の原理が成り立つ時代を待つまでの世界を、この信仰の時代が育てたはずである。宗教戦争の歴史は穏やかではないが、人がそれほどまでして、すがらなければ幸せになれなかった時代があったことは、確かであろう。

 それを考慮して言うならば、秩序を造り出すのは男で、無垢=純情、を直球で進行するのは女の主張という判断をしたくもなる。
 
 女が純情を知る時、それは自らを知る時なのだ。

 イヴの直面した旧約聖書の驚異を逆に考えれば、こういうことになる、即ち・・・

 ”自分が飾った数々の表面”・・・というものを、偽りと知った時、自分の姿に疑問を持ち、はじめて立ち止まり、考える・・・

 これは、一体、何だろう?
 私は一体、どうしてしまったのだろう?
 私は、何のために、生きるのだろう?

 ”知恵”は、そんな疑問から始まる。
 そして、これは、詰め込まれた”知識”では無い。
 自らが産んだ、卵である。

 もしかしたら、これが、”美しき天然”なのではないか・・・?
 産み落とした子供と同様の、”純情”。

 木下恵介は、そのように、ひとりの女を観てみたかったのではないかしら?

 で、これが男性が太古の昔から、崇めてやまない、”女性のヌード”なのかも知れない。

 西洋のラテン娘である妖婦カルメンとは、ひと味違う、信州のカルメン。

 この日本のカルメンは、前衛を気取る芸術家たる蛇に噛まれた瞬間、世界観が変わる。

 日本のカルメンは、友人が産んだ私生児を、「捨てちゃいなさいよ!」と、平気で言う。
 その捨てた場所に、待っていたように、蛇がいる。
 おかげでカルメンは、イヴになる。
 イヴになるのはいいが、化物にさえ、なろうとしてしまう。
 彼女の天然は、戦後の日本には、通じない。
 白痴は、何をしても、白痴・・・?
 牛に蹴られて頭がどうかしちゃった女は、一生、もの笑いの生涯をおくることを余儀なくされるの?
 だが、根性と情熱だけは、ある。
 こういう女が、何処かにいて、何が悪いかしら?

 陽の当らない、女の人生かも知れない。

 しかし、そこに、”純情”と”イノセント”の皮肉な縺れを表現した、木下恵介の自棄が、愛すべき結果となってぶつけられた、映画『カルメン純情す』のような気がするわ。

 木下監督は、知っていたのね・・・。

 女の武器が、”イノセントとヌード”であることを。

 ・・・それが、如何に誤解されやすく、如何に抹殺されそうな危うさを秘めているか、ということを・・・。

 人が”真実”と叫ぶことには、とかく裏と表があるもの。

 でも、”純情”と呼ばれるものは、いつの時代にも、誤解と懐疑こそ招きはしても、人が理解したくなるような”美しき天然”の魔法への憧憬を与えてくれる。


 ソフトにありたいのに、どうも、ジェンダー(?)に走ってしまうわ・・・。

 これが私の、悪い癖。

 ん〜、今日は、ヌードでは無く、鉄面皮・・・?

 いいえ、いいえ、十字を切る、オフィーリア。

 ロマンティックなアイスダンスでも観たいけれど、もう、そろそろ、夢に溶ける時間。

 明日、天気になぁれ!

 

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11 February

さあ、始まる!


 もうすぐ、トリノオリンピックの開会式。

 ウインタースポーツの祭典は、ここのところ、面白い。何しろ、競技の数が増えたもの。

 私の思い出は、何といっても札幌オリンピックだったけれど・・・

 バレエとスキーに励んでいた、札幌オリンピックの頃の私。
 だから、フィギュアスケートとスキーの滑降とジャンプは、今でも好き。
 ジャネット・リンが、転んだ。けど、あの輝く笑顔は、忘れられない。
 ハンサムな笠谷選手が、素敵だった。
 ”生まれかわる札幌の地に、君の名を書く、オリンピックと・・・”・・・スキー場に向かう車の中で、口ずさんだ。

 このお話をすると、ルパンはいつも、笑う。
 
 ロシニョールのスキーに憧れて・・・
 父の板は、ブリザード。

 冬に遊ぶ。

 
 トリノに、チャオ!


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