Archive for April 2006

27 April

『音、沈黙と測りあえるほどに』。


 春にしては、寒い日々が多い今年の4月。しかし、散歩が楽しくなるシーズン。曇り空でも、足は軽い。
 午後、3時、買い物がてら歩いていれば、グレーの空の何処かから、こんなアナウンスが聴こえて来る。
「3時になりました。子供たちが下校する時間帯となりました。地域の皆さんは、子供達の安全を心掛けてあげてください・・・」
 皆、どこか、ピリピリしている。子供が危険な状態にさらされていることに、とても神経質になっている。
 かつて、私も教育現場で子供たちと触れ合った経験がある。だから、この昼下がりの時刻にすれ違う彼らの様子を、どうしても見過ごすことが出来ない。・・・小学生ばかりでは、ない。中学生も、高校生も、同様である。・・・だって、よく考えれば、ずっと昔、私だって、彼らのように、無防備に登下校していたではないか・・・。そして、悪戯もし、一目も気にせず、悠々と道を歩いていた。危険があるなど、考えもせず、毎日、こんなものだろう・・・と、学校を往復していた(高校時代は、寄り道ばかりだったが)。
 今の子供達は、悪戯を注意されるのではない。危険を察知することを教えられ、自分達がいつも、誰かに、見守られている、と信じることを要求されている。・・・これ、考えてみると、窮屈なこと。
 でもね、子供には、本当は、大人達に知られたく無い秘密だって、あるのだけど・・・。

 そんなことを思いながら歩いていたら、向こうからやってくる一人の少女。
「103、104、105・・・」と、大きな声で数を数えながら下校している。小学校中学年というところだろうか? 彼女は自分の歩数を唱えている。それも楽しそうに、ひとりで、大きな声を張り上げて、歩いている。ほっぺにエクボをつくりながら、微笑んでいる。・・・これが大人で、大きな声で、自分の歩数を唱えながらやって来たら、ちょっと怖い。が、こんな可愛らしい少女だと、絵になる。
 私はすれ違いざまに、思わず彼女に微笑みかけた。彼女も微笑みかえす。

 そう、実は、私もこうして、自分の歩数を数えながら、今でも歩いているのだ・・・勿論、声には出さないが・・・。そして、ふと、「あらら・・・どこまで数えたかしら? 解らなくなっちゃったから、100からまた始めましょう」なんて。


 『音、沈黙と測りあえるほどに』とは、故、武満徹氏の著書である。この本は、1971年に発行された。が、私がこの本を購入したのは、15刷の1991年のもの。'71年の書籍とはいえ、この本の内容は、武満氏が、30代をむかえる頃の日記に始まる。
 素晴らしい感性と、文章だ。私がこの書籍を最初に読んだのが、28才として、到底、追いついていない・・・と、反省させられたことを良く憶えている。・・・青臭い言い方では、あるが。

 このような日記がある・・・氏が、地下鉄に乗っている時のこと・・・

 ”・・・現代の人間は、もはや魔術的な呪文を口にすることができなくなってしまっている。ぼくたちからは、魔力は去ってしまったのか。行動することではなく、表現すること。ぼくは、芸術の嘘に耐えなければならないのか。”

 氏は、テープに様々な音を録音する。そして・・・

 ”・・・ぼくは、この方法を表現というよりは、むしろ行動という言葉に近い感覚で捉えた。だから、ぼくは、消すことのできるテープを択んだのだ。ぼくは、これで自分を訓練してみる。そうした時、ぼくは必ず音楽に新しい音の大地を発見できるだろう。枯渇している音楽に、偶然の要素、非合理なものを導入しよう・・・。”(1960年)

 そして・・・

 ”音楽は、音か沈黙か、そのどちらかである。私は生きるかぎりにおいて、沈黙に抗議するものとしての<音>を択ぶだろう。それは強い一つの音でなければならない。”

 また・・・

 ”ぼくは子供に訪いてみた。・・・きょう一日で何が一番楽しかった?
 <たくさん遊んだことさ>
 ・・・何がいちばんつまらなかった?
 <あんまり遊ばなかったことさ>
 子供の言葉は、大人の論理では解剖できない不思議な実体に漲っている。それが言葉を生き生きと美しいものにする。子供がみせる突然の感情飛躍は、肉体の生理と精神の生理とが不可分だから、というより、それは肉体とか精神を超えた生命(いのち)そのものの表れなのだ。太陽のように率直でかげりがない。衰弱した肉体と虚大な精神が、大人の言葉を貧しいものにしている。ぼくのように、子供の言葉は美しいなどというのが本来どうかしている証拠ではないか・・・。”

 本著の中には、様々なことが書かれている。
 音楽のことばかりでは、ない。・・・勿論、ジョン・ケージや小沢征爾氏(昔のことに触れています、ある楽団とのちょっとした事件)、ジャズ、歌謡曲、映画音楽についての氏の興味深い経験と見識、また感想が描かれている。
 そして、ホアン・ミロ、ジャスパー・ジョーンズ、谷川俊太郎、瀧口修造・・・。

 最後に、武満氏が引用した鈴木大拙からの素敵なメッセージを・・・

 ”人間というものは何でもわかりきったことを疑問にしてその葛藤に巻き込まれてどうにもならなくなってゆくものだ。いうまでもなくそれは愚の骨頂なのであるが、この愚かさそのものが、これまでそんなものがあることを夢にも思いえなかったある領域をわれわれに開放するのだ。愚昧はいいかえれば好奇心である。好奇心は神がわれわれ人間の精神に植えつけたもので、神もまた、おそらくは、自分自身を知らんと欲して、人間をつくり、人間をとおしておのが好奇心を満たそうとするのだろう。”

 武満徹氏は、午前中に作曲の仕事を主になさっていたという。
 そうして、午後は、ご自身のための時間を過ごされていたとか。
 氏の他の著書も、素晴らしい文章で綴られている。
 私が所持しているもう一冊は、『音楽を呼びさますもの』。この本には、氏が愛した軽井沢の仕事場の写真も少しだけ見る事ができる。

 ああ、私も、このような深夜族ではなく、出来れば、早朝から、創意できるような、成人でありたい。

 しかし、この夜の静寂こそが、心地よいともいえる。


 今日は、英国ロンドン在住のDear Friend、オードリーから、お手紙をいただいた。オードリーは、画家である。
 彼女と彼女の夫、パトリック氏とは、来月御会いすることになっている。この(俗名)チッペンデール夫妻は、私の信頼すべき、友である。

 オードリー曰く、「ブルーだわ、私も・・・でも、青臭く生きましょう。そして、自愛なさい」

 こうして私が日記をしたためて夢に溶ける頃、あなたの長い夜が始まるのね、オードリー・・・。

 赤いワインと濃厚なスティルトンが、あなたの躯にしみ込みはじめる頃、私は眠りにつくわ。

 痩せっぽっちのオードリー。

 痩せっぽっちのジョジーヌ。

 ねえ、沈黙と、語り合いましょう。

 そして、小娘のように、はしゃぎましょうね。



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26 April

ティム・ハーディン『スーザン・ムーアとダミオンの為の組曲』。


 昨日は、ロンドンに珍しく、爪を立てられた。というのも、彼が空腹なのに、私が無理矢理彼のおしりを拭こうとして、すったもんだをやってしまったのが原因。
「ア〜ン!」と、私が大声を出したら、シュン・・・としてしまうロンドン。私は掌に、絆創膏。・・・まぁ、仕方ないわ。
 ルパンは相変わらず、自宅作業。
 私もあれやこれやで、あまりロンドンのことを構ってあげなかったわ。
 そうしたら、籐椅子の上で丸まってしまって・・・やや、いじけぎみ?

 今朝は、猛烈な雨。風もあり、雹も落ちてきて、ガレージに入っているとはいえ、新車が心配になるくらい。
 
 でも、午後からは晴れ間も見えてきて、私は散歩をしながら夕食のお買い物。・・・いつもと違う方向へ、お買い物。
 眺めのいい丘で、一休み。空はここより高く、私の目線は遠くへ、遠くへ。

 話が前後するが、昨晩から、ティム・ハーディンを聴いている(アナログ盤が、心地よい今日この頃である)。
 『スーザン・ムーアとダミオンの為の組曲』は、1969年のアルバム。これは、ハーディンの5枚目のアルバムらしいが、素敵だ。
 勿論、以前にも聴いた。我が家には、他にも、ティム・ハーディンのレコードが数枚ある。恐らく、十数年ほど前の一時期、家の中を満たしていた音楽だったと記憶している。
 当時、ニュー・フォークと呼ばれたらしい彼の音楽世界には、独特の空間がある。グリニッジ・ヴィレッジで歌い始めた彼は、何か幻を見ている人のような気配だ。密集しているわけでも無いが、開離してもいない、ハーディンの詩世界は、うたかた・・・と、永遠が混じり合ったような印象だ。そして、この'69年という時代を子供ながら生きた私には、どうしようもない郷愁と、子供心に感じた、あの頃の刹那さ・・・そして、不安な夕刻を思い出さずにいられない。
 この『スーザン.ムーアとダミオンの為の組曲』、レコード・ジャケットの表は、ティム・ハーディンの横顔・・・しかも、デス・マスクのような・・・色は、オレンジ色。そして、裏ジャケットは、彼の夫人、スーザン・ムーアの写真だ。・・・彼女スーザンの姿が見せるイメージ・・・それは、この時代でしか、存在しなかった女性とでも言おうか・・・足首まで届く黒いスカートに、黒い上着。この上着には、黄色いストレッチが、そして黄色いスカーフを巻き、手には白い手袋・・・。冬枯れの木立の中に佇むスーザンの姿は、魔性の女・・・うつむいた表情は、ややこわばっている。が、ぞっとするほど、美人だ。氷のような女だが、秘めたものを持ち、ぐっと引き寄せられてしまう。翳りのあるB・バルドーとカトリーヌ・ドヌーヴをミックスしたような妖艶さ。ダミオンは、ふたりの息子である。
 A面は、幻想を追う人の歌う薄日の射した世界。そして、B面になると、その足元が地上を離れはじめる心地になる。・・・朗読もある。最後には、ティムとスーザンの会話が。会話の〆は、このようなもの・・・

 We hide the truth inside our pants
 It makes the secret of romance

 Ha・・・


 もはや、音楽というより、映画を観ているような気持ちになる、この『スーザン・ムーアとダミオンの為の組曲』。

 ティム・ハーディンは、'72年に渡英したという。ドラッグに浸かった生活を繰り返し、とうとう、この麗しき謎めいた妻スーザンは、彼の元を去ってしまう。離婚したわけでは無いらしいが、'78年に再会するも、彼女は彼を捨てようとしたらしい。
 その2年後、'80年に、ハーディンは最後のアルバムを作ったという。しかし、その年の暮、ジョン・レノンの死の2週間後に、この世を去った。

 刹那こそ感じるが、熱い。
 ロマンティストではあるが、甘いわけでは無い。
 死んでしまいそうな予感を、若い頃からさせているけれど、それを、悲観させるよりも、もっと、深い、人が生きた時間を感じるわ。

 焦点が合ってしまったな・・・ティム・ハーディンさん。

 そして、美しき、スーザン。

 音楽を聴きながら、ドラマを観ているようだわ。

 そこに、詩が生きたのね。

 人が、生き、何かを作ったという時間の流れが、愛おしい。


 こんな言葉を言いたくなるわ・・・


 ”あたしはあなたに命をささげますが、あなたからは、くださるものしか、受け取りません。今のままの、あなたで、いいのです。そして恋人たちは、別れても、心配ありません。人生は、必ず、ふたりを結ぶものですわ”

 スーザンは、今、どうしているのかしら?

 


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23 April

サザン・ロックとウエスト・コースト・・・のはずが。


 夜、TVで観てしまったのは、レーナード・スキナードとイーグルスのライヴ。

 先日、『ホテル・カリフォルニア』のことを考えていたら、出て来ちゃったイーグルス。

 ところで、おっと!と、しみじみ感動したレーナード・スキナード。昔聴いた時には、サザン・ロックらしいと思えない雰囲気だったような気がしていたのだけれど、こうして映像で観ると、見ごたえがある。”セイム・オールド・ブルース”(そもそも素敵なバラードを感じさせる曲なのは当然だけれど)あたり、今日の私にはジーンときてみたり・・・。それから、鍵盤のビリー・パウエルの指さばきには、見とれてしまう。多分、今まで私の興味を惹かなかったのは、ロニー・ヴァン・ザンドのイメージが原因だったのかも知れない・・・正直に言ってしまえば・・・女の子的な物言いだけれど。が、この人も、'77年に飛行機事故で亡くなってしまった。
 とはいえ、レーナード・スキナードがサザン・ロックだったことは、今宵、はっきりと認識したわ・・・なんて言ったら、ルパンに笑われた。何故笑ったのかは、明確ではないけれどね。

 で、イーグルス。結成オリジナル・メンバーによる'73年、英BBCのライヴという内容。
 西海岸! 本当は'70年代初期の、甘口な曲が、どうも・・・ではある。そして、綺麗に揃うコーラス。勿論、この特色に文句は無いけれど、飛ばしてくれないと、この時代になると哀愁ばかりな西海岸を感じてしまうのは仕方ないか。つまり、すーっと妙に馴染みすぎるムードが、アメリカの斜陽を嗅いでいるようで晴れ晴れしない。別に晴れた西海岸を求めているわけではないけれど、そう、'60年代から、ウエスト・コーストの音楽に晴れがあったわけではないもの。でも、曇りでも雨でも、若者が馬鹿者として走っていた頃と、違う・・・これは、高校生の時から思っていたこと。・・・だから、パンクに持っていかれちゃうのよね・・・なんて。が、グレン・フライが男前で、良い。そして、『ならず者』の頃のナンバーは、確かに懐かしいけれど・・・と、思っていたら、やっぱり最後に出て来たのは、あのホテル・カリフォルニアのライヴ映像。これで、やっと、イーグルスを観た気がした(苦笑)。ジョー・ウォルシュが観られなかったら、淋しい私なのである。
 『ホテル・カリフォルニア』を深夜聴いていた昔でさえ、2曲目の”ニュー・キッド・イン・タウン”はちょっと苦手だったか。

 その後、ジョー・ウォルシュのアルバム『SO WHAT』を聴く。このアルバムでは、モーリス・ラヴェルの”マザー・グース”からの曲をやっているジョー・ウォルシュ。・・・このあたりがまた、この人が好きだったりする理由なのだけれど、やっぱり変な人! ・・・これが私とウォルシュ氏の相性のいいところ!・・・と言ったら、ルパンに笑われる。

 そうしたら、ジャクソン・ブラウンの”プリテンダー”が流れる。・・・悲しいな、悲しい。これで、一つの幕が終ってしまう予感をさせるアルバムだ。終ってしまう・・・というのは、アメリカの幼年期が、少なからず区切られるような空しさ。

 ベトナムが終ったら、皆、旅をつづけるのが難しくなったような孤独。

 ふと、しんみりしていると、コステロがやって来る。
 ”Accidents will happen”と、やって来た!
 笑っていたら・・・

 キャプテン&テニールの”愛あるかぎり”なんて、聴こえてきた・・・。
 ふむ、中学時代が懐かしい。いい曲。ラジオから微風のように(笑)歌いかけてくれたな。・・・今、眺めると、どうしょうもない中ジャケだけど。

 つづいて、フリートウッド・マック・・・。

 なんだかねぇ・・・こんな時間なのに。

 そろそろ、『ブラック&ブルー』に針が落とされないかな。

 まだみたい・・・ホール&オーツの『ABANDONED LUNCHEONETTE』・・・確かに、”Had I Known You Better Then”は、名曲だ。黄昏ぎみだけど・・・。

 なんて思って苦笑いしていたら、フー登場!!
 やっぱり、”THE KIDS ARE ALRIGHT”(大文字で!)でしょう!

 で、しばし、サザン・ロックのよもやま話を拝聴していたら、やっと針が落とされた『ブラック&ブルー』

 ”ハンナ・ハニー〜”と、鼻声で歌ったら、
「何でそんなに大きい声で歌うの?」

 歌いたいのよ、夜更けになると。

 麗しいかな、'76年。

 あれから、30年・・・か。

 She got a mind of her own and she use it well
 Yeh
 Well she's one of a kind

 かしら、今の私は?



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22 April

気前のいい男。


 その気前のいい男は、賢く、友達を大切にする。悪い環境に育ち、案の定、悪の道を辿るが、めっぽう腕が立つ。
 男の名は、ロベルト。渾名は、”ラ・スクムーン”・・・死神・・・厄介者と、その筋で知られてきた。
 ロベルトは濡れ衣を着せられた幼馴染みのグザビエを救うために奮闘する。友人を陥れた組織に挑むロベルト・・・。

 『ラ・スクムーン』は'72年フランスの映画。ロベルト役は、ジャン・ポール・ベルモンド。ヒロイン役のジョルジアは、クラウディア・カルディナーレ。舞台は、1937年からスタートする。
 ロベルトは、親友を陥れた組織に呼び出される。ボスをヤッた結果、ボスの経営するカジノとクラブを仕切る。しかし、友人グザビエは有罪となり牢屋の中。グザビエの妹ジョルジアは、クラブのマダムとしてロベルトを見守る。が、新たな米国人の黒人ヤクザに店をめちゃくちゃにされそうになる。で、またもや、黒人たちとやり合うロベルトだが、彼も殺人罪で牢獄へ。・・・そこには、グザビエがいる。自棄になって独房入りのグザビエ。ロベルトは看守(というか、部屋頭)をちょっと痛めつけて、グザビエを元のただの囚人の立場に戻す。監獄では仲間も出来る。腕の立つ、情のある男は、信頼されるものだ。例えそれが、暗黒街でも、監獄の中ででも。彼らは脱走の機会を待つ。ジョルジアと連絡をとり、武器を調達する。・・・が、時代は戦争へと突入していく。ゲシュタポ、レジスタンス・・・自分達のいる監獄の外の世界は、平和な世界の罪人が犯した事件以上の悪が平然と行われている。が、ロベルトは思う・・・人生は短い。自分に関係ない世界など、どうでもよい・・・と。ドイツ軍が撤退したのはいいが、フランスの海岸には、たくさんの地雷が埋められたままになっている。それを囚人たちに撤去させようというのが、国の思惑だった。上手くすれば、刑が軽くなる。勇気ある囚人たちは名乗りをあげ、地雷撤去作業に挑む。ロベルトとグザビエもその中にいた。しかし、グザビエは、地雷撤去中に左腕を失う。・・・それはロベルトが撤去しようとしていた地雷だった。・・・そう、グザビエは自分を救うために奔走してくれたロベルトにそっと恩返しをしようとしたのだった。それなのに、片腕を失ってしまう・・・グザビエには、どうも悪運がついてまわる。ツイてない友人を、ロベルトは守りたい。・・・やがて戦争が終り、刑を大幅に削減された彼らは出所する。ロベルトはその腕を見込まれて、キャバレーの用心棒として雇われる。そして、ここでまた頭の良い彼は、店の権利を奪う。グザビエとジョルジアにも、安らかな時が訪れる。しかし、シャバに出ても、片腕を失い、これといった仕事の無いグザビエは、やり場を無くしている。心配する妹ジョルジア。ロベルトはキャバレーを売り、その金でパリから2時間ほどの田舎に、馬場のある邸を買おうとする。が、ロベルトの留守中、グザビエとジョルジアだけの部屋に新手の賊が侵入。片腕でも、そこは暗黒街での経験豊富なグザビエである。応戦するが、相手は多数。5人のうち3人までヤルが、自らも命を落とす。
 ロベルトは、友人と恋人のために、足を洗おうと決めていた。
 しかし、グザビエの死で、再び復讐をはかろうとする・・・。
 ロベルトも年をとった・・・今は相棒も友人も、皆死んでしまった。
 そう、ここで忘れてはいけないのは、かつてロベルトのために、いつも助っ人として背後から彼を見ていた良き相棒がいたのだ。ミグリである。メキシカンのミグリは、手回しオルガンを街角で演奏しながら、ロベルトを何度も救った。が、そんな彼も、今はいない。
「背後から襲われたら、どうする?」と、ゲイに訊ねられたロベルトは答える。
「壁際に立つさ」と。
 夜のパリの小路・・・階段を上っていくロベルト・・・。そこで、ひとりの年寄りのオルガン弾きに出逢う。
 ロベルトは懐から札束を出し、老人に手渡す。
「おお、何て、気前のいい」と、嬉しそうに呟く老オルガン弾きだった。

 このロベルト役の男は、映画の監督ジョゼ・ジョバンニが、監獄の中で実際に知り合った男をモデルにしているらしい。


 実は、古いフランス映画の”暗黒街もの”が好きな私である。日本の仁侠映画は、あまり見ないが・・・。
 アラン・ドロンが演じると、最後は救い難い悲劇のシーン。ベルモンドの世界は、少し違う。悪漢は、死に屈することはあっても、人生に屈したわけでは無い・・・という印象か。

 これらフランス映画には、アメリカ映画には見られないシビアがある。
 それは、ヨーロッパの”大人”性というものかも知れない。
 アメリカ映画には、夢がある。それは、”子供”の視線に立つ、”大人”の夢である。だから、話も、ファンタジーになりえるし、探究がテーマにもなる。西部劇然り、ロマンス然り、英雄然り、そして、『ゴッド・ファーザー』でさえ、移民族の夢見る野望・・・という意味では、新天地への憧憬の歴史を連ねた”子供”の立場の物語かも知れない。
 そう、アメリカは、子供のための国である。
 が、ヨーロッパは、大人のために歴史が作られて来た。
 それを認識しようと思うなら、聖母子の絵画を観れば、はっきりする。テンペラで描かれた幼児のイエス・キリストの表情を観れば、それだけで解る。・・・つまり、西洋には、表現としての”子供”はずっと存在していなかった・・・ということだ。・・・西洋では”子供の形をした大人”が、求められた。早熟な子供を描いたのでは無い。はじめから、大人の顔をした子供である。
 成熟しては滅びるという長い歴史を繰り返してきた西洋と、子供の探究心でハイ・スピードで歴史を建築しようと試みた米国の違いであろう。


 翳りとは、大人にしか見られない姿。

 一方、無邪気とは、子供にしか無い精神。

 神話や伝説の世界をアメリカが多く映画にする現代・・・その理由は明解である。生き生きと描かれる英雄とロマンの物語は、子供が憧れる世界である。ポップ・コーンとダイエット・コークと共に、正義と幻想の魅力に浸ることが出来る。素敵なことだ。
 行動する英雄。考えるより、行動する・・・これを勇気と説く。これこそが、子供の美しき世界だ。

 しかし、もうひとつの世界は、考えながら行動する、慎重な大人の意志が求められる。確固たる哲学や思想が無ければ、行動は、無駄死にになる。
 大人の信念とは、生易しいものでは無い、と説く。

 

 というところで、私の好きなフランスの男優の三人衆は・・・というと、

 ジャン・ポール・ベルモンド
 アラン・ドロン
 ジェラール・ドパルドュー

 何とも、わかりやすい、私である。


 昨晩は、英国俳優にお熱だったけれど、今日はジャン・ポール・ベルモンド。
 腕が立ち、気前の良さが光るのは、ベルモンド!

 

 ロマン・ボイルドにならないと、進めないこともある。

 気前よく、生きることにしましょう。

 ラ・スクムーン・・・とは、気前のいい男の裏返しの言葉。

 何が起こるかわからない人生だからこそ、気前よく。
 
 いいな、この生き方。

03:41:52 | mom | 1 comment | TrackBacks

21 April

ケイトとレオポルド。


 春の嵐に驚かせられる朝。
 でも、その後は、青空が顔を出した・・・まさに”Here comes the sun”。
 そうして、夕刻には、その青空と薄紫が交わるわ。
 虹は見えなかったけれど、そういう現象は、滅多に無い人生の宝として、とっておくの。

 大安の日と赤口の日・・・お馬鹿さんね・・・一日違いのヘマをしていた私だけれど、今日は安らかな一日。

 夕食は、ポークとカブのホワイト・シチュー。”名前の見える”トマトをお塩で。”毎度のお肉屋”特製のソーセージのボイルを、ビールの肴に。

 『ケイトとレオポルド』、邦題『ニューヨークの恋人』を観る。
 都会で働く女性・・・恋より仕事・・・しかしそんな彼女の生活に突然飛び込んでくる素敵な男性・・・というパターンが、飽き飽きするほど物語られている米国映画。
 だから何となく観ていた(最初の15分を見損なっているが)・・・メグ・ライアンは、確かに可愛い女優さん・・・とか何とか思いながら。

 物語は、ニューヨークのアパートに暮らす男が過去から連れて来てしまった謎の男の戸惑いから始まる。
 スチュアートは、ケイトの元恋人。彼はマンハッタンの橋に過去と現在を繋ぐスポットがあることを知ってしまう。そんな彼と共に、19世紀から現在に時間の旅をしてしまったレオポルド。彼は英国のデューク(公爵)だった。19世紀の4月28日、本国では貧乏貴族となったレオポルドはニューヨークを訪れ、ここで金持ちの米国女性とどうしても結婚し、公爵家を維持しなければならない。目的は新境地で嫁探しという計画だったはず・・・なのだが、飛んだ時代は21世紀。レオポルドはスチュアートのアパートに転がり込むのだが、頼りのスチュアートはエレベーター事故で病院行き。そんなレオポルドと出逢ったケイト。二人はチグハグな関係なのだけれど、惹かれ合っていく。
 例えばこんな場面がある。街で彼女がカバンをひったくられる。すると、観光用の馬車に繋がれていた白い馬を馬車からはずし、その馬に跨がったレオポルドが、ひったくりを見事に追いかけていく・・・もちろん彼女を自分の後ろに乗せることは、忘れない。
 それから、恋のための駆け引き=作法。現代には用いられることの無いような、古風な”騎士道精神”に満ちあふれた行動と言動。・・・言い方は悪いが、粗野で野暮ったく、色の無いアメリカの恋愛作法とはかけ離れた世界が、レオポルドにはある。理性と情熱。そして、紳士的な態度。
 そんなレオポルドを好きになってしまうケイト。
 だが、レオポルドは過去の世界に戻る時が来る。
 彼を失う彼女。仕事のポジションをモノにしても、彼を永遠に失いつつある、ケイト。
 が、ケイトはスチュアートに助けられ、19世紀に旅立つ。マンハッタン橋から、まっすぐに飛び下りる彼女。「信じれば、いいんだ」とスチュアートに言われ、まっ逆さまに堕ちる・・・そこは、19世紀のニューヨーク。レオポルドの婚約発表の場。そこに現れるケイト。
 彼女は、19世紀に溯ることで、やっと、真実の愛に巡り合い、結ばれる・・・。

 過去は、偉大ね。

 気づかないうちに、人はそこで運命を見つけていた・・・ということ。

 このレオポルド役の、ヒュー・ジャックマンが何ともハンサムなのだ。

 私流に言わせてもらえば、デヴィッド・ボウイとスティーヴ・ウィンウッドを混ぜたような英国的な顔。で、身のこなしは、エレガントなシェイクスピア俳優のごとく・・・。
 もう、それだけで、いい。
 うつむいた目蓋の具合は、ゲイかも知れないと思わせるような淑やかさと上品な趣き。乗馬服が似合う紳士。

 御贔屓を勝手に言わせてもらえば、どうしても美男は英国の男性。そして、あくまで美人を感じさせるのは、フランス女性・・・あしからず・・・。

 それはともかく、世間の女性がどう感じるかは皆無であるが、私は男性のジェントルマン振りには、悉く、弱い(苦笑・今、酔っております)。
 非常に我が儘なことを言ってしまえば、こちらの出方や言動に応じて、リアクションしてくれる殿方に、負けること、おこがましい。
 そして、時には叱咤してくれるような、自信ある価値観に納得させられたなら、もろく、堕ちること請け合い・・・(憎いな)。
 要するに、飴と笞が程よく、決して、優しいだけが魅力では無いということか。

 現代、女は勇ましくあり、時代に敏感なものである。
 
 しかし、そこに、些か古風な男が、身近に無いほどの重厚な魅力で立ちはだかったなら、屈してしまうかも知れない。

 19世紀を、古と笑うなかれ。
 私はそこに生きた紳士に登場されたなら、ワルツを躍る夢を描く。
 
 19世紀は、浪漫な時代。

 そこに連れていってくれる紳士は、馬の背に。

 ・・・チェスの駒を動かすと、負け。

 ・・・カルタ遊びでは、勝利。

 寝不足さん、泣き虫さん・・・が、晴れ女になるなら、ロマンス。

 ・・・あなたは一体、どんな世界からやって来たの?

 そんなことを想うのが、恋・・・なのでしょうね。

 映画の中のケイトは、過去に旅立ってしまったら、現代を忘れてしまうのかしら?

 過去から現代に来て、また過去に戻って行ったレオポルドは、そのつかの間の旅を、忘れてはいなかったわ。



 私の恋人は、カラーの似合う紳士。

 私の恋人は、玄武岩の瞳。

 私の恋人は、よく眠る。

 私の恋人は、無鉄砲。

 私の恋人は、乗馬が得意。

 私の恋人は、夢の中で物語を語ってくれる。

 私の恋人は、くるみ割り人形のように、ダンスをしてくれる。

 私の恋人は、いつも私のことばかり考えるような愚か者では、ない。

 私の恋人の爪は、シロツメクサのように、白く美しい。

 私の恋人は、楽の音に、敏感。

 私の恋人は、理想のために、我が身を削る。

 私はそんな恋人を、愛するわ。


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