Archive for July 2006

30 July

ヴィーナス&マース。


 ここ最近、大陸からやって来た検索ロボット、通称”・・・蜘蛛”のおかげで、異様なほどのアクセス数にびっくり・・・というか、気持ち悪いこと・・・。
 どうやら、私のところはピークを過ぎたらしく、ホッ・・・。


 朝、目覚めたのは、午前7時。
 空は明るく輝き、これこそ、「太陽の讃歌」と微笑みたくなる。
 ・・・入道雲なんて、出ないかしら? モクモクと葡萄が逆さまになったような形の真っ白な大きな雲が、青い空に巨人のように現われるの・・・そうして、凄く暑くて、そうして、凄く喉が渇いて、そうして、私は心太を食べる・・・そんな夏の空が、今日から毎日続いてくれれば、陽気になれる。

 だけど、午前11時頃になると、少し曇ってくる。・・・なんだ・・・まだ、「太陽を讃美」するだけに留めておく必要があるのね・・・それなら、待ちましょう・・・もう少し、不安定を味わいましょう・・・。
 ・・・血圧、低くあり。
 ・・・食欲、あるが、あまり体重増えず。
 ・・・誤字、多し。
 ・・・目蓋、痛く痙攣す。
 ・・・睡眠、相変わらず、浅く。
 ・・・心臓、ドキドキ。
 これを理由に病院へ行けば、軽い機能障害・・・などと言われかねない。
 が、私は医者嫌い。
 おまけに私は、最近よく聞く機能障害、とか、ストレスとか、自律神経失調症などという言葉が大嫌いときている。見事、嫌いなのだ。かつて若い頃、そう診断されて、逆にそれを認めるのに吐き気がしたくらい!
 だから、躯を動かすの。ビュンビュン動く。やりたかったお風呂の大掃除・・・今夜は清々しい浴室で、ぬるいお湯にまったりと浸かるわ。

 夜・・・ユダヤとインディアの血をひく同世代の女性、オードリーと国際電話。3Gは、便利だ。
 先週あたり、ふたりでジュクジュクともらい泣きし合ったような、しなかったような・・・。なのに、今宵は元気を取り戻したふたりの女。人生半ばにもなれば、時々涙もろくなるのは、男性も女性も同じこと。オードリーと私は、似た憧れを持ち、しかもふたりとも、大人の不良。不良というのは、悪いことをする・・・というのでは無い。・・・どうしても、ズレちゃう・・・とか、何故か、軌道から外れちゃう・・・とか、真面目では無いけれど、生真面目???・・・というような、くすぐったい感情を少女の頃から懐に入れてきた・・・と、”ことわり”をつけたくなる”バカい”只の女たちである(このタイプは、他に若干2名くらいはいるだろうか?)。
 私たちは、泣きべそをかいたことなど忘れて、バラバラとおしゃべりする。
 唇が恋しいビターな乙女たちは、時に煙草を吸い、口に何かを放り込みながら、古風な風呂敷の中に包み込んでいたものを、広げる。

 広げてみれば、それは、空気に触れた瞬間、宝石に変わる。
 もう、涙なんか、無い。
 この間こぼれ落ちた涙たち、今日はみんな輝く宝石に変わっている。

 さて私、白い夜着に包まれ、湯上がりの顔をドレッサーに映してみれば、何て幼い表情をしているのかしら? ・・・ポワンとした顔・・・無防備で、まるで自分の顔を、初めて見ているような顔よ。
 まるで気難しいこととは無縁な顔をしているわ。

 で、今、P・マッカートニーの『ヴィーナス&マース』なんて聴いている。リアルタイムで中学生の時に聴いていたレコード。このレコードは、ビートルズ関係では、私にとって3枚目に購入したもの。数え切れない程聴いているので、盤面も白くなってしまっている。”あの娘におせっかい(Listen To What The Man Said)”なんて、ヒットしてラジオからもよく聴こえていたっけ・・・。
 このアルバムで私が好きな曲は・・・”Treat Her Gently -Lonly Old People”・・・12歳の時から、だ。

 Treat her・・・ではじまる部分は、ポールならではのメロウなイントロ・・・。
 そして訪れる、この歌詞・・・

 Here we sit
 Two lonely old people
 Eaking our lives away

 Bit by bit
 Two lonely old people
 Keeping the time of day

 Here we sit
 Out of breath
 And nobody asked us to play・・・

 たぶん、このような言葉のフレーズに思春期の私は夢を見たのだろう。

 冒頭は・・・

 ・・・彼女に優しく親切にしてあげて・・・彼女はもはや、自分の心を忘れてしまったのだから・・・
 彼女にはシンプルに、ゆっくり、そして簡単に教えてあげて・・・あなたにはもはや別の道など、ないのだから・・・と・・・

 この彼女、決して機能障害などでは無いのだ。
 ただ、歳をとっただけ・・・。

 この年老いた女性は、揺り椅子にもたれて、古い写真を見たり、毛糸玉を丸めていたり、石盤にチョークで何か書いていたりするのよ・・・。

 膝掛けの上には、猫なんかいるかも知れない。

 野アザミの色のセーターにツィードのスカート・・・。

 忘れ物をしたようなキョトンとした顔で、時々空を見上げるけれど、何を忘れたのか、忘れてしまう・・・。

 しかし、彼女は孤独では無いのね・・・。

 彼女の傍らには、心優しい人がいる。

 そうよ、オードリーと私がお話した今宵のテーマ・・・

 ”縁側でお茶をすする、老人たち・・・いや、恋人たち”


 ”ヴィーナス&マース”は

 Sittig in the stand of the sports arena.
 Waiting the show to begin.
 Red lights, green lights, strawberry wine.
 Good friend of mine, follow the stars.
 Venus and Mars are alright tonight.

 若きヴィーナス&マースは、苺酒を飲みながらショウを見る。

 ・・・それでも、彼らの時間は過ぎて行くわ。

 だからやがて、”Old lonely people”

 その時は、苺酒ではなく、お茶をすすりながら・・・?

 縁側はほがらかで、遠い昔の、くすぐったい思い出を、ああでもない、こうでもない・・・と語り合いながら・・・。

 BGMは、風に揺れる風鈴の音なのね。

 そして私は、心太をつるつるっと流し込む。

 きっと私・・・こんな風に、幾つになっても、酸っぱいものが、好き。

 華麗なショウは、若き日々の勲章になるでしょう。

 遠き永き世界が待っていてくれるなら、ここ数日太陽の讃歌を待つことなんて、なんのその。

 Nice peace play!

 恋か、然らずんば、否か!

 朦朧とした意識の中でも、ダルタニアンの夢を描く、揺り椅子の老婆でありたい、今日この頃。





04:22:16 | mom | No comments | TrackBacks

28 July

独裁者。


 チャプリンの『独裁者』を観る。'40年にこの映画が作られたことには驚くが、アメリカ映画と考えれば、可能なのか。
 何度か観ているが、何度観ても、見入ってしまう。

 第一次大戦に一兵士として向かった理髪師(チャプリン)。まぬけな彼は、何をやってもヘマばかり。だが、そんな一兵士がひとりの上官シュルツを救ったところから話が始まる。救ったは良いが、飛行機事故で記憶を失った理髪師。彼が病院から出る頃には、時代も変わる。国家は独裁者ヒンケルの時代に突入している。何も知らない理髪師は、ゲットーの自分の店に戻ってみるが、様変わり。隣家に住む孤児となった別嬪さんハンナ(ポーレット・ゴダード)と仲良しになるが、街はヒンケル(チャプリン二役)の支配下、自由が失われていた。ゲットーに暮らすユダヤ人は、憧れの国へ出国しようと目論む。ところで、理髪師が救ったシュルツは、ヒンケルの部下として立派な地位にいた。そのおかげで、理髪師は災難から逃れることもできるが、結局、謀反者にされたシュルツと理髪師は収容所に連れていかれるはめになる・・・。

 ストーリーはこの辺にして、散文的に。

 チャプリン映画が、あのモンティ・パイソンにかなり影響を与えているのは周知のとおりだが、この『独裁者』からのイメージは特に感じられる。・・・それも、パイソンのメンバー、M・パリンの筆が中心となって筋書きしたと思われるコント集は、まさにチャプリンの世界。パイソン好きの方なら、もうとっくの昔にご存知のことかも知れないが、パリンの動きや、コントのスケッチは、チャプリンを深く愛したことが伺える。クリースやチャップマンとは、少し異なった、古風なムード。パリンの動きも、チャプリンによく似ている。・・・で、私はパイソンでは、このM・パリンが一番好きなのだ。パイソンのコントでは、このチャプリン演じるヒンケルの役をヒムラーと称してパリンが演じていたり、また、”放浪するアホ”というテーマでは、後期パイソンの自転車乗りの冒険のやや長めなコント(レーニンとトロツキーを扱ったもの)など、思い出す。床屋=理髪師という人物像も、パリン・・・その後、ランバー・ジャックに変身するが・・・。で、冒頭30分頃までのヒンケルの演説シーンなど、後ろで拍手するのは、人間では無く、ペンギン・・・だったりするのが、パイソン流。

 チャプリン映画も、年代の若い頃からだんだんとアイロニーに満ちた方向へと変化していく。
 '20〜'30年代は、貧しく行き場の無い放浪者or冒険者の繰り広げるドタバタとロマンティックな恋。必ずチャプリンは恋をし、相手の娘も、境遇が悪い。『街の灯』は、盲目の花売りの娘。『モダン・タイムス』は、貧困で監獄送りになった娘。『黄金狂時代』では、酒場の娘。
 だが、この『独裁者』のヒロインでもあるポーレット・ゴダードは私が一番好きなヒロインだ。彼女は『モダン・タイムズ』でも共演しており、実生活でもチャプリンと結婚した女優だが、この人が演じるヒロインは、貧しいが、勇敢で、それでいて、夢みる可憐な乙女。つまり、彼女に惚れた彼を引っ張っていく女性像として描かれる。『モダン・タイムズ』でも、このふたりは一緒に逃亡生活を送るというラスト・シーンだが、希望に満ちている。

 さて、再びこの『独裁者』の物語に戻るが、何と言っても感動するのは、収容所を脱出し、ヒンケルになりかわった理髪師の演説シーンだ。この演説をしなければ、偽者として殺されるはめになる理髪師は、渾身の力を振り絞って語る。この最後の演説が始まるまでの”間”と、チャプリンの表情が、凄い。
「悪いが皇帝にはなりたくない、ごめんだ。支配も征服もしたくない。できれば助けたい、ユダヤ人も黒人も白人も・・・」
 で始まる演説は、心をつかむ。
 自由を奨励し、愛という精神を確かめるように訴えかける。不屈・・・というメッセージに素直に涙したくなる。
 この、無邪気な小さな理髪師が、よくもこのようなことを語ることが出来ると思ってはいけない。
 人々の心の中には、例え言葉にすることが無くても、このような精神が宿っているのだから。
 そうして、このまぬけな理髪師の言葉は、遠く離れた恋人のもとにも届けられる。
 理髪師は、いつしか彼女のために言葉を発していた。
「聞こえるかい? どこにいても負けるな。雲が消えて太陽が顔を出したよ。・・・勇気をお持ち、人間の魂には、翼がある。今こそ飛び立とう、彼方の虹に向かって希望の光を目ざして、素晴らしい未来が君と僕を待っている、みんなにも。ハンナ、元気をお出し」

 理髪師とハンナは、恋を越えて、本当の愛を知る。

 世界は、独裁者の力から救われる。

 そこには、希望がある。

 愛する、とは、無邪気な感情が成長する時に訪れる、魔法のような現象なのだろう。

 だから、その愛の素顔を知るためには、苦難も必要なのだろう。

 愛・・・が気高いのは、そういう理由なのだろう。

 第二次大戦、ここ日本にも同様の記憶がある。勝ち目が無いのに、戦うことは、空しい。正気でないのが、戦争、と思えばそれまでだが、侵略という無謀な理想に奮起したおかげで、国民が翻弄され、命が失われた。
 ・・・百人殺せば英雄・・・という暗黒が戦争、それは恐ろしい犯罪。
 この『独裁者』では、収容所のシーンは流石に少ないが、私は数年前、チェコを旅した際、テレジーンという地のユダヤ人収容所を訪れたことがある。
 ぞっとする気配が漂っている。観光地となって綺麗に整備されていても、暗鬱な世界が確かにこの地にあったという念のようなものを空気で感じた。
 そして、何より強く身にしみたのは、この場所が、ひどく乾いていただろう・・・と想像せずにはいられなかったことだ。

 乾いている・・・
 熱も、冷たさも感じない世界。
 人間の生きるための情熱は見当たらない。
 人間が虐げられたために生じさせる憎しみに似た冷気も失われてしまった状態。
 燃えてもいなければ、冷めてもいない。
 ただ、枯れていくように生気が奪われ、冷たい情熱さえ息をひそめ、憎しみの抱える熱さも、抹殺される世界。
 これを、諦めの世界と呼ぶのだろう・・・と、胸が締めつけられた。

 ただ、独裁者を夢見た実際のヒトラーの演説は、魅力のあるものだったのだろう。
 そのパワーの魔術にかかった時、人は惑わされ、心を失う。
 
 ウィーンを訪れた時、ドイツへ通じる道を走った。この道中には、シューベルトの暮らした家や、ベートーヴェンが交響曲『田園』を創作した森があるが、20世紀にこの道を整備したのはナチスだったという。
 靖国問題も気になるが、ヒトラーと無名の理髪師が一緒に祀られていると考えたら、どうだろう?

 強くあることと、それに憧れながら嫉妬し、無闇に反撃しようとするのは、別問題である。
 何故、戦おうとするのか?
 何に、立ち向かいたいのか?

 愛するということを知らぬものには、一生、わからないことかも知れないが・・・。

 しかし、この映画のチャプリンの目は、美しく輝いている。

 愚者がこれほど上品に身のこなしができるとは信じ難いことだが、それは、映画ならではのファンタスティックだ。

 そして、人間の真の品位とは、境遇にあるのでは無く、心のあり方に、あるのだろう。




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26 July

アヌーク・エーメの鼻。


 早朝・・・眺める景色は、濃い霧の世界。
 こんな霧に出逢うのは、一昨年前の初夏の軽井沢と、10歳の秋、善光寺へ行く途中の道での体験以来だろうか。

「霧よ、凄い霧。でも、私は、霧が好き」と言えば、
「子供っぽいこと言うね」と、ルパン。

 ・・・そうかしら?

 しかし、その霧も、どんどん散っていく。お昼近くになれば、薄日も射す。あと数日のうちに梅雨もあけるだろう。地味な行ない・・・と思いながら、乾きやすそうな衣類を選んで、洗濯を。掃除機をかけながら玄関に目をとめれば、あら、まっ! まだ数回しか履いていないレッド・ウィングの靴に黴が生えそう! 慌ててクリームを塗る・・・ふぅ〜。

 夕食はグラタン。しかも今日は少し早めの食事。ルパンはこの後、中村まりさんと打ち合わせの約束をしている。
「女性とサシなのですから、すっきりとして出かけてね」・・・こんなことを平然と言いながら彼を送り出す私が、子供っぽいかしら・・・ね?

 さて、食事の後片付けをして午後8時、ピアノに向かい、曲作り。大まかな旋律のイメージと全体のコード進行が完成する午後10時。明日になったら、全く駄目出しな気持ちになるかも知れないが、それはそれ。最終的には、気に入ってもらえればいいのだから。

 入浴後、'66年クロード・ルルーシュ監督の映画『男と女』を観る。
 この映画を初めて観たのは、10代半ば。子供の頃からこの映画のフランシス・レイの音楽が好きで、とても期待して観た記憶がある。が、残念ながら、その時は、渋い映画と感じたのは事実。・・・中年の男と女が会話しているシーン、しかも、モノトーン多し。アヌーク・エーメは美人だけれど、可愛くはないわ。でも、ピエール・バルーの歌う歌は、ロマンティックだった。恐らく'70年代半ばのことだから、この映画が完成して、まだ10年が過ぎたかどうか、という時代にもかかわらず、私にはやや古めかしく、恋人に対して、こ難しいフランス人・・・という印象が先立った。

 が、その後、20代でこの映画を再び観ると、また見方が違う。・・・アヌーク・エーメに憧れが生じてくる・・・高い鼻、そして、3センチあるかどうかの、さして高く無いヒールの靴を履いているにもかかわらず、ほっそりとした彼女の膝から下の足・・・。ジャン・ルイ・トランティニャンの紳士ぶりにも好感が。レーサー役のジャン・ルイは、実際に相当レース・シーンを研究しながら撮影に挑んだとか・・・。そして、この男女がレストランで”ステーキ”しか頼まないことも・・・。「何かもっと頼まないと・・・」と女が言えば、男はこう言う「喜ばせるか・・・ギャルソン・・・部屋は空いている?」・・・そんなスケッチに好感を持つ。

 で、今日観ると、また違う。男が着ているコートは、カシミヤかしら?  曇りがちな西洋の海と空の景色・・・これは、現在でも感じる西洋独特の古めかしさなのね、今でも同じ風景があるのだわ・・・。それに、ドーヴィル・・・ノルマンディの避暑地、パリから凡そ2時間ほど。ここの寄宿舎に子供を入れている男女が出逢うけれど、そんなことはきっかけに過ぎない。・・・昔、私が退屈だと感じたふたりの会話・・・即ち、「仕事の話をして・・・」と女が無闇に言い、男が言い淀みながらも語るシーン・・・これがまた今の私には心地よい。ジャコメッティの話、モンテカルロ・ラリーに挑む男のことを案じる彼女の日常の時間、彼女が送る彼へのメッセージは、「おめでとう、愛しています、アンヌ」。男は祝賀パーティーを振って彼女に逢いに行く。まさに、小躍りするように車に乗って深夜のハイウェイを突っ走る。
 が・・・。
 で、再び・・・が・・・。
 ドーヴィルで再会したふたりは・・・。
 彼女は夜のパリ行きの列車に乗り、彼に別れを告げる。
 彼はひとり車でパリへ。
 心が交差するのが、この報われない男女のように描かれる。
 が、男は思い直し、パリはサン・ラザール駅へと車を付ける。
 上野駅のような(これは西洋の駅では当たり前な光景だが)行き止まりのホームの終着点で、男が煙草を吸いながら顔を手首に乗せ、女を待つシーンがいい。
 最後にふたりが抱き合うシーンの何倍もうっとりする。

 このように、大人の男と女の恋は、五里霧中なのだろう。
 このふたりの男女が、この先、どうなるか・・・など、愚問なのだ。
 女が、「愛しているわ」と言った時点で、決定的な瞬間が訪れ、白状された男は、「けしからん!」と、人々に言われるような弱気を見せないことに、美が、ある。

 男と女が忘れられないことは、ひとりの人間を愛した・・・という良心と情熱の記憶なのだ。

 これでも、私、子供っぽいかしら?

 霧が好き・・・子供っぽいかしら?

 ですけど・・・

 アヌーク・エーメの鼻には、参ります。

「こんな鼻だったら、私、人生、変わっていたかも・・・」

 と言えば、

「どう、変わっていたのさ?」

 ・・・さあ、わかりませんわ。

 明日の朝は、何とか雨降りではないとか。

 では、私も、洗濯物と一緒に、洗濯バサミに、鼻を預けることにいたしましょうか?



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24 July

Largo・・・長い一日。


 扉を開け、扉を閉め、出かける。

 扉を開け、扉を閉め、帰る。

 出かける時、向かいの坊やがひとりつまらなそうに、サッカー・ボールを蹴っている。

 戻って来たら、愛猫ロンドンに甘えられ、軽く爪をたてられる・・・引っ掻いたりしない猫なのにね。

 長い一日・・・疲れているのに、まだ起きていて・・・

 絵日記を書く宿題を放ったまま。
 
 今日のお天気、曇り。

 気温・・・?

 日なたで確かめましょうか?
 それとも、テラスの下の日陰にしましょうか?

 近くの遊園地の花火が始まるわ。
 この先、一ヵ月、土日の夜は、我が家の寝室の窓が花火になるわ。
 浴衣を着た女性は、無料になるとか。
 行ってみようか・・・浴衣姿で。
 紺地に青の大柄な花模様、ちょっと'70年代風な浴衣、帯は山吹色、カランコロンと下駄を履き、髪を結い、昔、海辺の街で買った団扇を片手に。
 そんな姿で、大人になった私が、夕暮れ時のメリーゴーランドに乗っていたり、コーヒーカップの中にいたり。

 いいえ、そんなこと、ひとつもしていない一日でしたわ。

 さて、あまりに眠れないので、イタリア語を話すことにいたします。


 Ombra mai fu

 frondi tenere e belle
 del mio platano amato,
 per voi risplende il fato;
 tuoni, lampi e procelle
 non v'oltraggino mai la cara pace,
 ne giunga a profanarvi austro rapace!

 Ombra mai fu di vegetabile,
 cara ed amabile, soave piu.
(樹木の蔭で、これほど愛しく
 愛すべく快いものは無かった)

 
 そういうことだった・・・と噛み締めようとすれば、今日もまた、素晴らしい。

 ラルゴ・・・な、この夜明けの風景。

 太陽が臆病だから、出足はゆっくり。

 だけど・・・なのね、ここで。

 Platano・・・スズカケの樹のように輝いて。

 樹木の蔭で、私は夏休み帳をめくる。
 
 ずっと先のことまで、書いてしまう。

 ”予告された夏休み”・・・なんていうお話を作った少女時代の頃。

 水彩画で描いた海の絵は、水平線をぼやかそうと、何度も何度も、乾かしながら色を重ねたわ。

 ひとりが好きになれる、ほんのひととき・・・それは、夏の始まりの一瞬の出来事だった。

 テンポは、ラルゴ。

 寝冷えには、要注意。



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22 July

夢のような世界。


 梅雨はまだあけないようだが、ここ一日二日は、夏休み気分にさせてもらいたい。

 夜、映画「ハウルの動く城」を観る。宮崎映画は何だかんだで、ほとんど観ているのだが、恐らくこの「ハウル・・・」が一番好みなのだろうな・・・と観る前から思っていた。
 一夜にして、荒野の魔女の呪いで90歳のお婆ちゃんになってしまうソフィー。彼女はひとり旅(?)に出る。そこで出逢う案山子、彼に案内されてみれば、ハウルの城へ。魔法使いのハウルは美しい青年だが、怠け者。この城にはハウルの弟子の少年とカルシファーという火の化身がいる。この城でハウルたちと暮らすことになるソフィーは、ハウルの本当の姿を知ってしまう。知ってしまうが、彼に恋をしてしまうソフィー。彼らの世界は戦争中。ハウルはひとり闘うことを決意する。そんなハウルを見守りながら、救おうとするソフィー。

 ストーリーは、よく出来ている、と、申し上げたい。解りやすいとは言えないという意見があるなら、それは、原作が西洋のものだから、ということも理由しているか。寓話の世界につきものののエピソードは、日本のものとは少し景色も違う。魔法や呪いという観念の微妙な差異・・・。
 また、このハウルの城の印象は、テリー・ギリアムの世界や、「オズの魔法使い」。何でもかんでもくっついてひとつの城になっている動く城の描写や、案山子の登場・・・そして荒地の魔女の竜巻きのような風で老婆に変身してしまうヒロインの不思議な旅・・・。
 だが、この荒地の魔女よりも、一枚上手の魔女がいるのね。

 感動的なのは、怠け者の魔法使いのハウルと、これといって目的も無く帽子を作るだけの暮しをしていたソフィーがひょんなことで出逢ったおかげで、このふたりが使命を感じ、お互いを思いやりながら生きる希望を持つ事になる・・・という展開だ。
 しかも、この登場人物たちは、皆、契約や呪いによって宿命を背負わされ、それに立ち向かうことになる。
 傷ついたハウルを気づかって、彼の部屋に入って行くソフィーのシーンは、短いシーンだが、オルフェが瞑界へ行く様子を想像させるわ・・・。
 ・・・火の化身が消えれば、ハウルの命はなくなるし、ハウルの秘密が解けなければ、ソフィーは若い娘に戻れない。
 ハウルの心臓は、燃える火によって生かされ、ソフィーの運命も、その火によって左右される。だから、カルシファーという火の化身を守らなければ、彼らは救われない。が、その火の化身は、気紛れだし厄介物。

 ソフィーはハンサムな魔法使いに出逢ったその後で、「私、夢をみているみたい・・・」と洩らす。
 その夜、彼女は老婆になってしまう。

 突然、老婆になってしまうのは嫌よ。
 でも、「夢をみているのかしら・・・」と感じるような、ぼうっとしてしまう瞬間があったら、乙女としては、生きている価値もあるだろうな。

「ソフィーへのプレゼント・・・僕の秘密の庭さ・・・」

 と、ハウルは彼女に自分の思い出の地を見せる。

 すると、彼女は言う・・・

「不思議ね、前に私、ここへ来たことがあるような気がする・・・」

 そして彼女はこうも言う・・・

「・・・私、ここへ来たら、ハウルが何処かへ行っちゃうような気がする・・・」

 が、そんな結果を招かないのが、ロマンスの世界、夢の世界。

 恋の力が、悪魔との契約を断ち切る・・・か。

 夏休み気分の小娘には、もってこいのお話ではないか。

 いいえ、小娘だけでなく、殿方にも、よいのかも知れません。

 だって、今、ルパン氏も、観てますもの(笑)。

 久石譲の音楽は、案山子登場のシーンなど、「ペールギュント」を感じさせる。主題歌を歌う倍賞千恵子の声は、美しい。







02:27:13 | mom | No comments | TrackBacks