Archive for 13 January 2009
13 January
watching the wheels
音楽大学を受験する前のほぼ半年間、多くの曲の中から選択した、たった4曲のアリアを、来る日も来る日もくり返し歌い続けた頃が懐かしい。
楽曲は、『Lasia chio pianga(私を泣かせてください)』/ ヘンデル作曲、『Quando ti rivedro(いつまた君に逢えるだろうか)』/ ドナウディ作曲、『Vaghissima sembianza(かぎりなく優雅な絵姿)』/ ドナウディ作曲、『Ma rendi pur contento(あなたは私をしあわせにします)』/ ベッリーニ作曲。
イタリア語は何の無理も無く読め、その言葉の響きを伝えることに、少しの不自然も感じること無く、私は、歌ってのけた。
受験を間近にした今頃の時期は、もはや、これ以上練習しても、さして変化はないだろうと感じつつ、それでも日々、時間を費やした。指導してくださった先生は、「行ける」と太鼓判を押してくれていて、私は、私のような人間にそのような自信を与えることは危険でございます、と内心思いながら、2月後半の4日間に渡る試験に備えていた。
因に、ピアノの試験曲として選ばれたのは、ベートーヴェンの『悲愴』の第3楽章。これについても秋口からずっとくり返し弾き続けた。もう、これ以上、今の私は上手く弾くことなんて、出来ないのです・・・と、レッスンの時、先生に内心訴えながらも、弾き続けた。
しかし、そのようなくり返しというものは、必ず何か新しく気づかせてくれるのである。
無駄と思えても、くり返すことで見出される些細なこと。
それは、その人間本人にしか解らないことだが、その些細なことこそ、粗末にできない破片・・・光る破片。
音楽は、私に、「訪れ」ということを教えてくれた。
yes・・・あの頃、私は自分に必要なものを見失わないためだけに、生きていた。
あの頃に戻りたいのではない。
また、「訪れ」に、触れたいのである。
対位法のように、完成されるべくある方向に向かって、躊躇わず、気丈に、調和を意識しながら。
表情を持ち、或る場面では"appassionato"、また或る場面では"con anima"、"con molto sentimento"、そして、ああ、"vivace"に。
私は、あの十代後半に、体位物というものについて実感した。
私を取り巻く、体位物。
隔てることのできない体位物は、悲しくも、私に時間という使者を送り、愛の鞭ともいえるヒリヒリするような強迫観念を与える。
が、私はその鞭に、"dolce con moto"として応じるだろう。
結局、私とは、そのようなことをくり返す祖末な人間だが、音楽が私に与えた沈黙との対話は、その啓示を言葉というものについても実感させた。
沈黙とは口が閉じていることだが、歌うように語ろうとする声なき声は、セイレーンの歌同様、その河を行く人たちだけには、届くだろう。
・・・そう、あの懐かしい頃も、そんなことを漠然と考えていたのかもしれないわ。
同じ頃、よく聴いていた曲に、レノンのこの曲があった。
watching the wheels・・・
やはり、今日もちょっとパレスチナのことを想いながら、おやすみなさい。
03:45:50 |
mom |
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