Archive for 10 February 2009

10 February

クロック・ムッシュとクロック・マダム



 クロック・ムッシュとは、フランスの軽いメニュー、朝食としてもポピュラーなものであり、日本でもお店のメニューとして目にすることもある。マルセル・プルーストの小説の中にも登場したクロック・ムッシュだが、私の記憶ではモーリス・ルブラン原作のアルセーヌ・リュパンのお話のひとつにも登場した朝食メニューだったような気がする。物語の中のリュパンは一晩中疲労したあげく、睡眠をとり、翌朝、そのクロック・ムッシュとゆで卵、そしてココアを飲んで、サッと邸を出発する、勿論、身だしなみを整えることは忘れずに・・・違っただろうか? この記憶が誤りであったとしても、私はかまわない、そのイメージが、ここにあれば。
 このクロック・ムッシュと半熟のゆで卵とココアという組み合わせはお薦めである。特に、冬の寒い朝など。


 クロック・ムッシュの作り方は色々あるが、私の作り方はこのようなもの(私の所有するフランス料理のレシピを参考にしております)。

 1: 二枚のパンの片方の面にそれぞれバターを塗る。
 2: バターを塗った面を下にしてその上にチーズ(グリュイエールなどがあれば良いが、そうでなくても普通のトロけるタイプのチーズなら何でも)、ハム、更にチーズという具合に重ね、オーブンに乗せる(私はここでハムやチーズの上に必ずブラック・ペッパーをかけることをお薦めします)。
 3: もう一枚のパンを、バターを塗った方の面が上になるように2に重ね、オーブンに乗せる。
 4: 表面がキツネ色になるくらいまで焼く(オーブントースターならばそのままで良いが、トースターでないオーブンの場合は一度ひっくり返す必要があります)。

 上記はあくまで私の作り方だが、オーブンではなく、フライパンで焼く作り方もある。それから、この重ねたパンの上に更にチーズを乗せることもある。

 ハム&チーズ入りのホット・サンドとも言えるが、クロック・ムッシュという名前で呼べば、それはクロック・ムッシュであり、作り手の気持ちが、ホット・サンドとは異なったものに仕上げてくれるかもしれない。
 そしてクロックとは、「カリッとした」という意味、文字通り、カリッといただくよう作ることも大切なこと。


 ところで、今日の朝食は、実はクロック・マダムなのであった。
 クロック・マダムとは、先ほどのクロック・ムッシュの上に目玉焼きを乗せたものである。これは、手で摘んで口の中に入れるというより、ナイフとフォークがあった方が食べやすいかもしれない。目玉焼きにはお好みでケチャップやマヨネーズ、ソースなどをかけても。因に今朝のチェリーは、我が街の地元産の非常に美味なウスター・ソースをかけて食べていた。ここの街には幾つかの手作りソースのお店があり、それぞれ吟味した素材のもと、余所では味わえない魅力的なお味で好評なのである。値段はブルドッグなどよりやや高いが、ソースだけでなく、サラダ用のドレッシングなども季節ごとに売り出していたり、また、量り売りもしている。で、今朝の私はキューピーのコブサラダ・ドレッシングをかけていただく(このドレッシング、オムレツなどの卵料理にも合います)。
 しかしクロック・マダム、ムッシュよりもボリュームがあり、ミルクもグイッといただいた私には、少しヘヴィーな朝食となりにけり。とてもお腹が空いていたり、タンパク質を摂りたい朝であれば、元気の出るメニューである。
 
 で、このクロック・ムッシュとクロック・マダム、薄切りの食パン(サンドウィッチ用)や、バゲットなどの硬いパンを斜めに薄くスライスしたものを使うと私としては塩梅のよい厚さなのだが、生憎、今日我が家にあったパンはサンドウィッチ用に切りそろえてある食パンではなかった。
 よって、ボリュームがあるのは、当然なのである。

 そのようなわけで、午後、買い物に出かけて、サンドウィッチ用のパンを購入。
 明日の朝は、クロック・ムッシュと半熟ゆで卵、である。


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 ここからはカリッとした感触というよりサックリと綴りたいが、さて、どうだろう。また、表現のことになってしまうが。
 今日私は久しぶりにある方がお書きになった文章を拝読していて、感じたことがあった。
 それは、表現をする側と、それを鑑賞(或は経験)する側の意識や目的が必ずしも対等とは限らない場合に生じることもある、悲しさと言えばよいだろうか。
 表現者にとっての表現とは、受け入れられ、出来れば奨励されることが理想である。しかし、それは鑑賞者の見方にもよる。彼/彼女が表した時、相手が受けとめることは「心地よさ」はもとより、「感動」であったり、「共感」であったり、或は「反発」であっても、何でもよいが、しかし、受けとめる側の意識が「何を見たいのか」で、伝わり方が変わってしまうおそれがある。
 これは、大切なことである。
 人間の視点をひとつに求めるほど、私はこれでも幼稚ではなく、または洗練を欠いているとは実感していない。理解と共感は多いと喜ばしい、それも解る。が、そういう問題とは離れたところで自分を表現する人も居る、ということが、世界を明るくし、人間という生き物の摩訶不思議を愉しいものとして、後に残すことも事実であろう。
 だから、別の角度から考えると、表現者を育てるのも鑑賞者なのである。
 そして表現者とは、それを、知っているはずなのである。嘘を自分自身にだけはつけないという重苦しい心の塊こそが、表現者の紋章であり、それを背負って表すのである。
 何と言えばよいのだろう。見る側の成熟の度合いも、必要ではないかということだろうか。日本という国は、何かを鑑賞する意味で、もっと大人になるべきなのではないかと考えたくなった、ということだろうか。
 
 ・・・もう少し、筆を加えておきたいこともあるのだが、私が今日、このようなことを感じたということだけは、今、記録しておこうかと思った、忘れることがないために。


 話は変わるが、今宵は満月だという。
 満月の日というのは、地球上に存在するものを膨張させるという。人間の肉体もやや膨らんだりするらしい。これは月の引力によって、血管を流れる血液や体内の水分が増えることが原因で、この日にスピードを出し過ぎることによる事故や、争い事などが多いのは、人間の感情がやや活発になるため、つまり血の気が多くなる、という実例もあるらしい。
 狼男伝説は古くからあるが、満月を見ると狼に変身してしまうという物語の発生や、儀式的なものが満月の晩に行われる等、上に綴らせていただいたような理由があるということは、今やよく知られていることである。

 人間の神経は、見えない力によって影響されたり、操られているもの・・・これは、抗い難く、普遍だろう。


 だが、今、ここに居る私の心は、平和であり、夜の静けさに据えられ、その闇の底にある透明に近く触れ、これまで以上に、広く世界を観察しているような気分なのである。
 

 天井に、"YES"。





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