Archive for 25 February 2009
25 February
HOWL...!
i can not control my mind...God...please say to me, yes, i cry instead of you.
but it is not good for me.
howl...me like a wolf.
the life is not always substantial.
it is not unhappy at all.
but, the person wants to sometimes disappear.
like a today's new moon.
me...nowhere...only cry to the secret moon.
only now, i am going to lose an important THING in exchange for the future.
22:23:19 |
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路地と十字路
路地というものは、大通りとは違った風情を見せてくれたりして、好んで通り抜けたい場所である。
その路地を歩いていて、ひょっこり見つけたものが妙に味わい深かったりすると、更に喜ばしい。
でも、時には通らなければよかったと思うような路地もある・・・ああ、もう、この通りは駄目だろう・・・井戸の周りに集った人たちも、もう枯れてしまっている・・・かつては賑やかそうだったこの路地には、もはや新しい住人は入って来ないらしい・・・。
路地とはいっても、そこを通る人は、何も住人ばかりではない。
路地とは、閉じられたものではなく、次の道に繋がる通路でもある。
路地は狭いが、その向こう側には広い通りが待っていたりする。
しかし、行き止まりの路地もあるのだ。いや、そもそも行き止まりではなかった道を、封鎖してしまった路地と言おうか。
そうやって、人気が無くなっていく道のことを、今日は案じた。
ああ、そういうことなのかもしれない・・・と、その路地を通り抜けた。
何か、代謝の悪い通りなのである。風通しをよくしようとしているのかどうか、解らない。
この路地を、閉鎖的な路地と感じるのは、そこを通ろうとした者にしか解らないだろう。
そこに集い棲む者は、それに気づいてはいない。この路地を風通しのよい道にすることこそ、希望的であり、繁栄に繋がるはずなのに、路地を独占的にしてしまうことで、かえって狭めてしまう。
道は、一度狭くしてしまうと、広げることにどれほど苦労することか・・・これは、門と同じである。
広いものを狭くすることは容易いが、狭くなったものを広げるためには、時間と・・・
・・・はて、時間と、何だろう?
時間と、大人の寛容が必要なのである。
それは21世紀の世間の一角である。
私は、といえば、薔薇の園にチョーサーと共にちょっと迷い込んでみたりした一日。
それをしながら聴いていたのは、Johannes Ockeghem(ヨハネス・オケゲム/15世紀の作曲家)の世俗曲。
オケゲムのミサ曲は知られていただろうが、この世俗曲については、以前はあまり耳にされてこなかったかもしれない。
柔らかい歌(chansonと呼ぼう)は、物静かな衣擦れの音を誘ってくれる。
その場所に漂う、ひそひそとした小声の囁きの光景さえ目に浮かぶ。
ここは路地ではないが、人々が出会う場所である。
新たな出逢いがあり、出来事が起こり、或いは、秘密事もあるかもしれない。
そこで人々は自らを確かめ合い、手を握り合い、接吻し合い、物語を作るかもしれない。
物語とは、筋がある必要もない。
物を語ることが物語であり、それは社会というもののひとつであろう。
月に群雲、花に嵐。
そんな季節は、些か代謝も芳しくないものだろう、誰でも。
アメジスト、少々乱暴に扱ったかしら?
明日は少し休ませてあげたい。
いつものように、赤いガーネットの出番かもしれないわ。
私は私の赤い十字に乾杯。
十字路・・・それは、行き交う場所。
03:09:28 |
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